48年ぶりの母校での想い
東海支部会長  栗 原 四 郎
(昭和31年電気科卒)
 
 私は昭和31年に卒業してから、鉄造りに関わる仕事に就いて以来48年間、一度も秋田市内は勿論母校に足を運ぶ事は無かった。

 母校の百周年記念式典への案内状を頂き、夢にも見た懐しい母校を尋ねて見たいとの強い思いもあり、出席を申し込んだ。

 勇躍9月30日の朝8時に名古屋駅を立ち、東京~新潟経由で16時過ぎに秋田駅に着いた。途中高校時代の3年間の大半を、象潟町から列車通学で利用していた羽越本線での車窓から、あの美しかった緑濃い松林が、無残にも焼け焦げたように立ち枯れている姿を見て呆然とし、48年と言う時の流れを実感した。

 翌10月1日の朝6時に、当日の祝賀会開場となるホテルを出て通いなれた道を辿りながら、昔と変らぬ校門前に立った。思わず帽子を取り一礼をし、少々遠慮しながら誰も居ない校内を一巡した。校舎の佇いには昔の面影は無かったが、同窓会館や堂々たる実習棟に頼もしさを覚え、新築された屋内練習場と「明日の太陽」のブロンズ像を見ながら、この学び舎から巣だって行った多くの先輩・後輩達が、立派な社会人として大活躍されている事に想いを馳せ、懐しさで胸が一杯になった。
   改めて百年に亘って、若く夢多き人材を送り続けている母校の先生方や関係者のご尽力に対して、深く敬意とお礼を申し上げたいと思う。

 私も入社した当時、実力も経験も無い若造であったにも拘わらず、秋田工業の電気科を卒業して来た一人前の男と見做され、以来鋼鉄製造プロセスに関わる殆んどの電気系の設計から工事・操業・整備という一連の仕事を担当させて頂き、今でもこの経験を活かして充実した日々を送っており、母校への感謝の念で一杯である。

 今にして思うと、母校はラグビー等による全国的な知名度の高さは勿論であるが、素晴らしい人材を育て挙げてくれた先生達や、その薫陶を受けた卒業生が、営々として築き挙げて来た実績が、多くの関係機関に評価され、百年という歴史を経た今も存在感を示しているように思う。我が秋工の不滅を願って止まない。