命の恩人米川教官
浅 野 文 治
(昭和12年電気科卒)
 
 3年生の時の配属将校は米川教官(二ツ井町富根出身)で、「俺は酒で失敗し、陸士の同期より進級が遅い、酒と女は身を破滅するもとだ」といつも訓示された。

 2学期の教練の時間に教室で半紙を1枚づつ配り、「貴様ら何でもよいから思っていることを書け」と言ったので、学校教練には反対である。必要性なし。その時間を実習時間にしたらよい。登下校の時のゲートルは成長期の少年の脚によくないからやめてもらいたい。等々を箇条書にして提出した。

 卒業して満州炭鉱に就職、15年2月に関東軍戦車第1師団工兵隊(3個中隊600名)に入隊、幹候の1次試験に合格、3ヶ月後の2次試験に不合格で乙幹になった。中隊の古参下士官が部隊本部で、幹候試験の書類を見たら、出身校から教練の成績の内申書があり、「お前のは“将校不適”であったと言われた。其の後軍曹になり、18年2月に同年兵と共に除隊帰国。
   3月にNHK秋田放送局に就職、5月末のある日1人で勤務中に、アッツ島玉砕のニュースがあり、米川部隊長米川浩少佐の名前を聞き愕然とし、涙がとまらなかった。

 2部隊で約2,300名、2人の部隊長は2階級特進し、米川少佐は大佐になった。アッツ島からは1名の遺骨も還らない。

 関東軍の私の原隊は、19年に再編成し、フィリピンに行った。700名の部隊の先発は台湾海峡でやられ、後発は連日米空軍の襲撃により四散し、生き残り百数十名は捕虜となり、戦後帰国した。私より1年後に入隊して来た秋田県出身の、生き残り2名も既に他界した。甲幹になり将校になってフィリピンに行った3名も戦死した。

 昭和9年入学の年は30周年であり、卒業して60歳の定年までに5回職を替え、馬齢を重ねながら、100周年まで生きて居ることが不思議に思うこともある。