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今は四月末日、秋田市では桜前線も過ぎ去り桜も散りはじめました。そして、北上しながら、青森、あるいは津軽海峡を越えて北海道の方へ今、桜の花が満開になろうとしているところであります。秋になれば紅葉も綺麗でしょう。しかし、こういった季節の中で私がもっとも好きなのは、やはり青葉若葉の映えるこの新緑の候。なにかみんな泉のように希望に湧くいいときだなぁ。と、思う訳であります。 開校して百周年。私の母校秋田工業高校は金砂が原にあります。その昔、この金砂が原に、知事さんや偉い方々が秋田県は農業県なので、農業学校をこの金砂が原に建てようと考えていました。そして農業のシンボルとして、秋田県の農業の心魂の為に尽くさせたいということで、構想を考えていたようです。そして話が進み、初代校長には今の北海道大学の偉い先生がこの秋田農学校に赴任することが内定していたそうです。その先生が赴任することにあたってポプラの苗木、それから白樺そういうものを植え付けて開校の準備を心がけた。ところがそのころ、仙北の方の県会議員が秋田市の一画に農業とはなんぞや、ぜひこの農業学校は仙北によこしてもらいたい。ということで、大曲に大曲農業高校ができた。だから秋田工業高校よりも数年早く、大曲農業高校が百周年を迎えたわけであります。 それでは、ここ金砂が原に工業学校をつくろうということで今の秋田工業高校ができた。明治37年の3月31日に校舎ができた。そして、授業を始めたのが5月2日。いろいろな問題を乗り越えて、変わるとこは変わって秋田工業高校は今に至っている。だだ変わらないのは質実剛健の意気、質実の徳これを校訓としてやってきた。この工業精神、この心が我々先輩から私達、私達の後輩またその後輩その後輩と、ずっとこの校訓を胸にしながら今日まで秋田工業高校が栄えてきた。校歌は我々もいかなる時も歌い続けている。 |
私が同窓会長に就任した時、いろいろな支部をまわりました。大阪、名古屋に行きますとみんなよくきたなと言って優しく迎えてくれました。卒業以来初めて会う方もいました。みな、私を歓迎してくれました。そして各支部では、みんなが集まると、必ず校歌を大きな声で歌う。ラグビーの歌も歌う。あぁ、あの頃はよかったな。あの頃は大事だったな。今をもって懐かしいな。 県外の各支部をまわるとき、みんな一様に秋田工業とはいい学校だと言ってくれる。俺は、そんな母校を持ち幸せに思う。そう言ってくれる。この際、同窓会館を造りたい。県内外の同窓生は、みな賛成してくれました。学校に同窓生が来ると、学校に敬意を示し、そして同窓会館で昔話に花を咲かせる。 この秋田工業高校は、県内の工業学校のリーダーとして、また中心としてみんな頑張っている。この百年の歩みの中に文武両面にわたって頑張る秋田工業高校生。ラグビー、駅伝によく頑張っている。いやー、偉いな、諸君は偉いな。それから軟式野球や吹奏楽もよくやっている。その他の部活でも本当によく頑張っている。素晴らしいことだなと思います。輝ける秋田工業高校。未来に満ちた秋田工業高校。伝統と誇りに満ちた秋田工業高校。これからも、一つ一つ皆さんの力でこの学校に輝かしい歴史と伝統を重ねていってもらいたいなと思います。 |
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