モンゴル滞在記
山 崎   孚(昭和34年機械科卒)
 
 はじめに、私がモンゴル国の首都ウランバートル第4火力発電所にJICA(独立行政法人国際協力機構)からの派遣要請に応募したのは平成16年10月のことでした。

 今回の派遣要請業務は火力発電所に於ける業務管理改善の技術協力であります。

 私は長い間勤務した東北電力株式会社、相馬共同火力発電株式会社で習得した火力発電所の保修関係の知識、技術がモンゴル国の発電所でお役に立つとの思いでチャレンジしました。

 派遣が決まるまでには、一次選考として技術審査、健康診断、さらに二次選考では面接、語学試験、健康診断をクリアした後、最終的に派遣前研修とモンゴル語の研修を終了したのは3月初めでした。その後4月5日に派遣合意書を締結し、はじめて合格となり4月6日に現地へ赴任しました。

 派遣期間は2年間(平成17年4月6日~19年4月5日)です。赴任当初は言葉、習慣、気候、食事等急激な環境の変化に対応出来ず下痢や高熱等により日本では罹ったことがない病気に悩まされましたが、1年近く経過した今では大分慣れ順調に業務に励んでいます。

 業務関係で一番苦労する事は、発電所のエンジニアとのコミュニケーションであります、全てが通訳を通して行い、資料の提出でも日本語からモンゴル語に、モンゴル語から日本語に翻訳して行うことで技術の伝授は時間的に大変苦労しています。

1.任地での生活や風土、習慣について
 首都ウランバートルは海抜1,350mの高地にあり、人口は年々増加し約100万人でその内アパート群が6割、残りはモンゴル各地から移住して来た人々がゲル(モンゴル独特のテントハウス)生活をしています。

 ゲル地域は電気、水道、道路未舗装等インフラ整備が遅れ不自由な生活を送っています。

 市内の交通状況は最悪で、信号が少なく横断歩道が青信号中でも車優先のような状況で歩行者は車を避けて渡っており、中央付近で一時立ち止まり車の合間をぬって横断しています。

 また、1992年以降は民主化が進み自由経済の発達により、マンションやビルの建築ラッシュに加え、高級車や別荘を持った高所得者も増え貧富の差が広がっています。

 

 私の宿泊場所はフラワーホテルです。ここは「日豪合弁」で設立され日本語を話せる人もおり、またレストランは中華、洋食、日本食等食べられますし、部屋は一室を年間契約で使用し日常生活は不自由なく過ごしおります。

 モンゴル国民の顔立ちは日本人に似ている人が多く、またチンギスハーンを祖先に持ち気位が高く、親族、友人とは非常に友情が篤く、ほとんどの人は親日で親切に対応してくれます。

 市内は携帯電話が普及し、インターネットカフェは学生であふれ、洒落た看板が立ちならび着飾った女性が街を闊歩する等、自由な雰囲気が満ちています。

2.火力発電所について
 発電所は1980年の旧ソ連・モンゴルとの合弁により建設され、1983年から運転を始め、現在ウランバートル市内の約70%の電力供給と温水暖房用の熱供給を行っているモンゴル最大の発電所で職員約1,400名であります。

 今は、株式会社の形態ですが、株は100%モンゴル政府が保有しています。

 1991年社会主義が崩壊し、ソ連人技術者250名が引き上げてから、事故や停止が多発し、発電所は壊滅状態になりましたが、1992年から日本へ緊急無償援助を依頼し、その後3期にわたり約40億円の資金援助を受け、1998年に一応運転出来るようになりました。

 その後も有償工事や専門家、シニアボランティア等の努力により事故や停止も激減し運転されています。

3.モンゴルに来て感じたこと
 一番に感じることは、治安が悪く(スリ、強盗、交通事故等)日本人と見ればお金を持っていると思いよく狙われます。

 被害にあったJICA関係者や一般市民を多く見ています。異国での生活は、常に自己責任による危機管理に徹し、残任期間の業務を思い残すことのないよう、最後までモンゴル国民のためお役に立ちたいと思っています。

 また、休日には自然に恵まれた名勝地を訪ね見聞を深めながら、モンゴル国民との交流を行い意義のあるモンゴル滞在にしたいと思っています。


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