記 念 講 話
■講演者/昭和31年機械科卒業 細矢育夫(株式会社 三栄機械 代表取締役)
■日時/平成20年5月1日
 
私は、昭和31年本校の機械科の卒業であります。
今年で70歳になりました。

この節目の年に我が母校に参りまして後輩の皆さんの前でお話を出来ますことは、誠に嬉しい限りであります。

自分が今日まで仕事を続けてこられたのは母校秋田工業高校の「質実剛健」そして「秋工ファイト」の長い伝統に育まれた秋工魂に支えられたお陰であり、先輩諸兄に対し、又ご指導下さった諸先生の皆様に改めて感謝申し上げる次第であります。

 自分が秋田工業に入って驚いた事がありました。伊藤幸三先生という陸上競技部の監督でしたが、最初の体育の時間に〔お前たち秋田工業に入ってラグビーが出来なければ絶対卒業させないぞ〕と言う大発破でありました。

 卒業して一年は地元のベニヤ会社でむき芯の丸太担ぎをやりました。その後、担任の先生のご紹介で、日産汽船(現日本郵船)に、見習い機関部員として入社しました。

 当時は戦争で失われた船を計画造船で次々と造り始めましたが、船員さんが不足して各船会社は全国から高卒者を大量に採用して1ケ月の特訓の後、順次見習い船員として乗船させたものです。見習い船員ですから、先輩の部屋の掃除から風呂やトイレの掃除、更には皿運び等を行った後、機関室に入って部品の手入れや機械の修理などの見習いをするわけです。

一日13時間くらい働くのが当たり前でした。
 私の処女航海は、川崎港からサンフランシスコ経由ストックトンというカリフォルニアの平野の中にある港に鉄鉱石を積み取りに行くものでありました。

船の大きさは1万トンと、当時としては大きい方でした。6月中旬の航海であり、比較的穏やかな航海を続けていましたが、丁度180度の日付変更線のあたりで大しけに会い、大変な船酔いに苦しみました。〔船酔いしたから降ろしてください〕と言う訳にも参りません。ただ、ひたすら我慢して慣れるしかありません。

 船酔いは、一度徹底的に酔った後はそれほど苦労する事は有りませんでした。

 川崎を出港して丸二週間海ばかり見つめていましたが14日目の朝早く、水平線の向こうにうっすらと山が見えてきました。〔あーあの陸地がアメリカ大陸とわかった時〕何とも言いがたい感動を覚えました。

その時初めに感じたことは「高校の同級生の中で、自分が一番乗りでアメリカに来た。」と何とも言い難い満足感に浸りました。

 有名なゴールデンゲートブリッチの下を通過して眺めたサンフランシスコの綺麗な町の景色、そして初めて踏んだストックトンでの大陸の土の感触などなど今でも忘れません。

 6年ほど見習いを続けた後、資格をとるために海技大学校に一年入りました。

外国航路に通用する免状は一番下が甲種二等機関士でありました。

その資格をとった後で、一等機関士の免状まで取得し、タンカーや鉱石運搬船、定期船と色々な船に乗り、最後は自動車運搬船のハシリで、船名が「ブルーバード」という格好の良い新造船を、受け取りから一年航海した後で11年勤めた船を下りました。

 船で教わった最大のことは、「絶対」と言う言葉の強い意味であります。

普通船の主機関は一基であります。航海中に海の真ん中で故障して動きません。

などと言うことは絶対あってはならないことです。万が一故障しても何が何でも自分たちで直さなければ、嵐でも来たらひっくり返ってしまいます。

 船員をやめた後、陸に上がってから、鉄骨を作る会社に勤めましたが残念ながら、一年半余りでその会社が倒産してしまいました。

それが又ひとつの転機となり、一緒にやろうと声を掛けてくれる人もあって現在の会社を創業しました。

 目的は、墓石屋さんで使う切断機と研磨機を作って、東北一円に売ろう、と大きな夢を抱いてのスタートでありました。

 

本社の事務所も工場も無し、無論社員もいない社長一人きりの会社でありました。

機械の設計は、同級生で設計会社をやっていた仲間にお願いし、よそ様の工場と人を借りての機械作りを行い、ようやく出来上がった一号機を試運転しようとしたら、うんともすんとも動かない機械でありました。

 そのような苦労を繰り返しながら、石屋さんの機械作りのほか、様々な仕事を捜し求めて頑張っている中で地元のTDKさんの設備の修理関係をさせて頂けるようになり、その関係で国内の大手の粉体メーカーとの付き合いが出きる様になりました。

それが当社の大きなベースになり、現在も国内を中心に各地に出かけて仕事をしております。

 ここ数年前から積極的に取り組んで参った航空機関係の仕事との出会いは、十数年前Uターンで秋田に帰りたいと言う秋田工業の後輩が、当社に入ってきました。

彼が航空機の整備や、部品製作を行っている会社に勤めていたのがきっかけであります。

彼が勤めていた会社に「何か仕事をお願いします」と訪問している中に、「三栄機械は一体何が出来る会社か」と少し興味を持ってくれる人達が出て来てくれました。

或いは又、その会社のOBの人達との出会いもあったりして、防衛省の航空自衛隊の格納庫で使用する整備用機材や、格納庫の空間を有効に利用出来るよう中二階を造ったりの仕事を少しづつ受注出来るようになりました。

そうしている内に、大型の早期警戒機A-WAXの導入が決まり、それに付いているロートドームというアンテナの日常点検に使用する高所作業車の提案営業を3年余り続けて注文をもらうことが出来ました。

 航空機体関係の会社との付き合いの拡大を図っているうち、B-747の胴体の骨組みを組み立てている会社に、ワンタッチで位置決めを出来る組立冶具を提案したところ採用して頂き、これが、関係する国内の数社の技術屋さんの目に留まったのが本格参入のチャンスとなりました。

 タイミング的には国産の大型輸送機と対潜哨戒機を同時開発が決まったこと。

また、ボーイング社の次世代航空機の開発に三菱重工、川崎重工、富士重工の三社が共同開発の形で参加することが決まりました。

その様なことから、国内の航空機各社が従来とは大きく動きが変わってきました。

其の時期と合わせて当社でも何か出来ることが有るのではないかと情報の収集と積極的な営業展開を行ったところであります。

 その結果、CX、PXの試作機の組立冶具や試験装置の一部とか、B-787次世代航空機の主翼や中央翼の組立装置のある範囲を提案しながら受注に結びつけることが出来ました。

その他にも小型ジェット機の主翼の組立冶具とか作業ステージなど関係する様々なものを受注しております。

 特にB-787機は沢山の受注を抱えているようですし、当社としては是非機体の部品の一部を継続的に受注出来ればと、そのための体制作りを県内の数社の皆さんと協力し合っている所であります。

そして又、航空機の先にはロケットも人工衛星もあります。

それらに関係した仕事も、ほんのわずかですが受注に繋がって参りました。

 これから先、秋田工業高校の在校生の皆さんにも大いに宇宙航空機関係に興味を持っていただいて、関係する職場で活躍していただく事を期待しています。

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