前東海林会長をしのぶ
体操ニッポンの栄光を築き世界にも名を轟かせた
今は亡き、遠藤幸雄氏との思い出
体操部OB会副会長 堀 井   弘
(昭和30年工業化学科卒)
 
 3月25日、東京の体操部の後輩より、自宅に遠藤幸雄先輩(昭和30年電気科卒業)が入院先の病院で逝去されたとの悲報が入る。
まさか間違いではないのか?
元気で体力があった彼がなぜ? ただ茫然とする。 入院手術後の経過は順調に回復に向かっていると聞いていたのですが、2年前の10月
秋田わか杉国体で来秋、その時、同期の体操部の仲間と会食し高校時代の部活の話題で盛り上がり、これから楽しい余生を過ごすんだと話していたのが最後でした。

遠藤さんの栄光については皆さんもご承知と思いますが、45年前の1964年の東京オリンピック体操競技において日本人として初の個人総合で金メダル、平行棒でも優勝、金メダル。団体でも連覇を達成、又3度の五輪で金5、銀2、計7個のメダルを獲得しておりこの功績は我が秋工卒業生、在校生の誇りでもありました。

遠藤さんとは体操を通して中学校ではライバル同士であり、昭和27年に秋工へ入学したらクラスは異なるが遠藤さんの姿もありました。

互いに知っている仲間同士、上級生からの勧誘もあり入部。一年生部員は7名となり、「七人の侍」と呼ばれ苦節三年間脱落者もなく卒業。残念ながら今は4名のみとなってしまいました。

遠藤さんは家庭の事情があり市内亀ノ丁にあった旧感恩講児童保育院より通学しており、ここの最上級生でもありました。

校内でも表情が明るく、身だしなみも良く、協調性もありクラスでは成績も上位にあることは先生より聞かされていた。

入部してから互いに気の知れた仲で、「ゆきお」「ひろし」と名を呼んでいた。


  当時の体育館は狭く室内競技の各部が時間を定めて行ない床は杉板で凸凹があり、器具の設備の悪い中で山方、小田原両先生の指導と夏の合宿時に大学の先輩達も駆けつけ激しい練習が続いた。

特に一年生の時は基礎体力も出来ておらず、鉄棒練習で出来た手の皮の痛さに毎日の様に泣かされたが、痛みの処置方法を二人で考え出し仲間にも伝え練習に励む毎日であった。

3年生になった昭和29年は母校創立50周年、体操部創部30周年の年に当たり記念事業として東北一を誇る新体育館(現第二体育館)が完成し体操器具も一新された。遠藤キャプテンを中心に18名の部員は打倒能代高校を目標にテスト期間も休みなしの練習が続いた。

この年の全県大会はこの新体育館で行われ本校は堂々と能代高校を破り17年ぶりの全県一となり、大阪でのインターハイ出場を得たが残念ながら東京の桐朋高校に僅差で破れ優勝こそならなかったが団体二位、遠藤氏個人総合二位となる。

大学進学後は、天性の素質と努力により数々の大会で活躍「体操、世界の遠藤」の名を轟かせた。

講演等で常に話していた言葉に社会人になったら少しでも良いから貯金をする事を心がけるよう、将来はかならず何かに役立つのでと…!

これはまさに東京オリンピック鞍馬で少しミスを出し個人総合優勝は心配されたが前半からの種目で合計得点の貯金があったので優勝出来たのだと言っていた。

この言葉は自分の子供達にも言い聞かせている。

部活動を通じて知り合い永年にわたるお付き合い友情の思い出はまだつきない。
①十字懸垂力強さとともに美しさを表現
②現役最後のメキシコ五輪にて日本選手団の旗手を務めた
③大望を前に
④平成19年10月5日秋田わか杉国体で来秋
 体操部の仲間と会食(仲間との最後の写真)
 前列中央が遠藤幸雄氏、
 後列左が体操部OB会副会長堀井 弘氏、
 前列右が体操部OB会会長渡辺佐文氏

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