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当時の体育館は狭く室内競技の各部が時間を定めて行ない床は杉板で凸凹があり、器具の設備の悪い中で山方、小田原両先生の指導と夏の合宿時に大学の先輩達も駆けつけ激しい練習が続いた。 特に一年生の時は基礎体力も出来ておらず、鉄棒練習で出来た手の皮の痛さに毎日の様に泣かされたが、痛みの処置方法を二人で考え出し仲間にも伝え練習に励む毎日であった。 3年生になった昭和29年は母校創立50周年、体操部創部30周年の年に当たり記念事業として東北一を誇る新体育館(現第二体育館)が完成し体操器具も一新された。遠藤キャプテンを中心に18名の部員は打倒能代高校を目標にテスト期間も休みなしの練習が続いた。 この年の全県大会はこの新体育館で行われ本校は堂々と能代高校を破り17年ぶりの全県一となり、大阪でのインターハイ出場を得たが残念ながら東京の桐朋高校に僅差で破れ優勝こそならなかったが団体二位、遠藤氏個人総合二位となる。 大学進学後は、天性の素質と努力により数々の大会で活躍「体操、世界の遠藤」の名を轟かせた。 講演等で常に話していた言葉に社会人になったら少しでも良いから貯金をする事を心がけるよう、将来はかならず何かに役立つのでと…! これはまさに東京オリンピック鞍馬で少しミスを出し個人総合優勝は心配されたが前半からの種目で合計得点の貯金があったので優勝出来たのだと言っていた。 この言葉は自分の子供達にも言い聞かせている。 部活動を通じて知り合い永年にわたるお付き合い友情の思い出はまだつきない。 |
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